03 伝兵衛地蔵
03 伝兵衛地蔵
清水の伝兵衛地蔵さん
志木街道が狭山と清水の境で大きくカーブする一角にお地蔵さんが立っています。身の丈六十センチメートルの可愛いいお地蔵さんですが、伝兵衛地蔵と呼ばれています。建立はわからないのですが、台座に享保・宝暦の年号が刻まれており古さを物語っています。
昔、清水村に代々伝兵衛を名乗る旧家がありました。分家のせがれが行方不明になり八方手をつくして尋ねましたが見つかりません。心配した本家の伝兵衛さんはお地蔵さんを建てて祈願したところ、まもなく無事に分家のせがれは帰ってきました。喜んだ伝兵衛さんはお地蔵さんを自分の屋敷に移して供養をしました。
村の人も無事に子供を返してくれたお地蔵さんを伝兵衛地蔵と呼んでおまいりするようになりました。
志木街道も、このあたりでは、当時、村山道といわれ、狭山のバス停を北に入ると、消防小屋と火の見やぐらがありますが、そのあたりに昔は神明社があり、こんもりした森になっていました。東へ真っすぐ現在のバス通りと交わる道が旧道です。
伝兵衛さんの屋敷はこの旧道沿いにあり、お地蔵さんは畑の一隅に建っていました。清水の五十嵐英三さんは先代が新家に出た時は常口の脇に立っていたといい、大正のはじめ新道が出来て表の通りに移されました。
今は土地の人でも伝兵衛地蔵の名を知る人はいなくなりました。誰いうとなく子育て地蔵と呼んでお参りしています。幼な児の健康を願って、ヨダレ掛けや帽子が数多く重なって、いつの世も変らぬ親心をしめしています。近頃は亡くなった水子供養におまいりする人もあると聞き、お花や、お供物が絶えることなく供えられています。
表通りといっても昭和のはじめ、まだ畑の中に立っていたお地蔵さんも、時の移り変りのなかで、荷馬車から、絶え間なく通る車の公害に小さな胸をいためています。
以前、ここで大きな交通事故がありました。それでも大事に至らなかったのは、きっとこのお地蔵さんが守ってくれたからだという声もあって、一時考えていたこの一角の角切りも行われず、そのままになっています。
今では、地元の人達にブロックで囲んでもらい、魔のカーブの守り神となっています。
(p7~8)
清水の伝兵衛地蔵さん
志木街道が狭山と清水の境で大きくかーブする一角にお地蔵さんが立っています。身の丈六十センチメートルの可愛いいお地蔵さんですが、伝兵衛地蔵と呼ばれています。建立はわからないのですが、台座に享保・宝暦の年号が刻まれており古さを物語っています。
昔、清水村に代々伝兵衛を名乗る旧家がありました。分家のせがれが行方不明になり八方手をつくして尋ねましたが見つかりません。心配した本家の伝兵衛さんはお地蔵さんを建てて祈願したところ、まもなく無事に分家のせがれは帰ってきました。喜んだ伝兵衛さんはお地蔵さんを自分の屋敷に移して供養をしました。
村の人も無事に子供を返してくれたお地蔵さんを伝兵衛地蔵と呼んでおまいりするようになりました。志木街道も、このあたりでは、当時、村山道といわれ、狭山のバス停を北に入ると、消防小屋と火の見やぐらがありますが、そのあたりに昔は神明社があり、こんもりした森になっていました。東へ真っすぐ現在のバス通りと交わる道が旧道です。
台座に宝暦4年(1754)、寛政13年(1801)、宝暦13年(1763)、享保ll年(1726)、明和(1764~1771)の年号が彫られています。造立の理由は行方不明の子返しとされますが、この時期には天災が激しく、飢饉が続いた年でした。その背景が関係あるかも知れません。